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ご紹介, 所蔵(孝四郎), 所蔵(轍)

印章

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轍が使用したと思われる印章。
未彫あり。

孝四郎の記憶に残る重要な原風景のひとつと考えられよう。
邦郎も判子を彫るのを楽しんでいた。

 

ご紹介, 所蔵(孝四郎), 所蔵(轍)

和本 百人一首

和本  百人一首

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最終ページに、「作者 中村三近子 作者 藤皷溪 畫圖 西川祐信」とあり、
「跡見学園女子大学/図書館所蔵百人一首コレクション」(https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1200/WJJS25U/1171055100/?Word=%e8%a5%bf%e5%b7%9d%e7%a5%90%e4%bf%a1&Relation=AND&TypPttrn=CATALOG&SlctView=20&SelectPage=1&BfrDispId=WJJS21U&StrSrchTrgt=1171055100200010&NextSearchFlg=&headerSearch=true&integrationFlg=)などから察するに、18世紀後半のものとお思われる。

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轍によると思われる押印あり。

 

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孝四郎による挟み込みあり。

ご紹介, 所蔵(孝四郎), 所蔵(轍), 所蔵(邦郎)

百人一首 三種 

百人一首三種
年代の古いほうから

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尚、邦郎の代まで、外国製の玩具を使用した形跡は一切ない。

 

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

オオマア・カイアム 『アルス泰西名詞選1 ㇽバイヤット』 1921年

オオマア・カイアム 『アルス泰西名詞選1ㇽバイヤット』(竹友藻風訳)アルス 1921年

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「背は羽二重の深紅染、平も羽二重の白のつぎ表紙。平に黄・紅2色の草模様。平中央・背は金箔。天金。」(恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』、掲載、邦郎によるコメント、108頁)。

『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』三省堂サイト:https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/

 

 

ご紹介, 蔵書(孝四郎)

『公園のベンチ』1930年      『ところはモンタリイ』1931年

『ポール・ホワイトマン主演 映画「キング・オブ・ジャズ」より公園のベンチ』(春陽堂楽譜1)春陽堂、1930年

『「キング・オブ・ジャズ」より「古きメキシコの戀の思ひ出 ところはモンタリイ』(春陽堂楽譜19)春陽堂1931年

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1930年製作のアメリカ映画。原題《King of Jazz》。監督:ジョン・マレイ・アンダーソン。第3回米国アカデミー賞美術賞。

タイトルのとおり、「キング・オブ・ジャズ」の名に相応しいポール・ホワイトマンとその楽団が主演したレヴュー映画。

孝四郎は玄関から出かけるときにチャップリンの真似をして家族を喜ばせたりなど、映画にも関心を寄せていた。

 

ご紹介, 蔵書(孝四郎)

『相馬御風随筆全集 懐かしき人々』1936年 

相馬御風『相馬御風随筆全集 懐かしき人々』1936年 厚生閣

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購入の形跡はないので、本人、あるいは装幀を手掛けた作家などから贈られたものかもしれない。

相馬御風(1883-1950)は、邦郎妻展子の母小田きたが師事していた縁もあり、小田末吉、きたの仲人であった。

結婚当時は、青踏社華やかなりし頃、神近市子らとも知人関係にあったきたを、結婚式でいわゆる「新しい女」と揶揄するような男性もいたが、相馬御風が「新婦はそんな女性ではありません!」と喝破したという(展子伝)。

ご紹介, 所蔵(邦郎)

彫塑 (クニヲ)

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邦郎が使っていた書斎に無造作に置かれていたもの。

いささか読みにくいが、数字が刻まれており、「1923 八月 クニヲ」あるいは、「1928 八月 クニヲ」と見える

1923であれば、孝四郎の作、1928であれば、邦郎の作であろう。いずれにしても文字部分は孝四郎が刻んだと思われる。

貴重な資料を後生大事にしまい込んだりするのではなく、孝四郎が生きていた時代のように自然に、という考えから、アトリエのなかの作品や書籍も配置していた邦郎のことである。校長などという職を務めながらもシャイなところがあったので、孝四郎の愛情が伺われるものを、なおさら大切そうに扱わなかったのかもしれない。

もっとも晩年は孝四郎の作品継承のことはかり念頭にあり、自分の作品の管理などに専念する余裕もなく、案外、自分でも忘れてしまったのかもしれない。それも邦郎らしいところである。

 

 

 

ご紹介, 装幀の仕事(邦郎)

ウォルター・ロード 『大西洋の悲劇 タイタニック号の謎』1956年

ウォルター・ロード 『大西洋の悲劇 タイタニック号の謎』(佐藤亮一訳)、大日本雄弁会講談社、1956年

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大衆向けの仕事がその本意ではなかった邦郎、
映画の大ヒットによって、「タイタニック」の名前があれほどまでに知られるようになるとは夢にも思っていなかったであろう。

 

 

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

前田夕暮 『烟れる田園』1926年

前田夕暮 『烟れる田園』 アルス、1926年

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「雲形強圧髪に白と黒緑でたんぽぽ、背文字は金箔押し。カバーは乳茶色の同質紙に
焦茶と鼠で凸版刷り。」(恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』、掲載、邦郎によるコメント、115頁)。

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蔵書印あり。

 

 

 

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

山村暮鳥 『梢の巣にて』 1921年

山村暮鳥 『梢の巣にて』 叢文閣 1921年

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「白地に藍と赤で素描。文字は金箔押し」(恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎
装本の業』、掲載、邦郎によるコメント、108頁)。

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原稿あり。