ご紹介, 所蔵(邦郎)
田河水泡『のらくろ』
2024/06/30
漫画家 田河水泡の代表作『のらくろ』のシリーズ。
『のらくろ二等兵』の表紙に、直筆サインあり。
田河水泡(1899‐1989)は、恩地孝四郎の隣人であった時期がある。1933年に越してきて以来、1960年代の、正確な期日は不明であるが、半ばまでは居住していらしたようで、 元子には朧気ながら、やさしい笑顔の記憶がある。後に知ったことであるが、村山知義らを中心とする前衛美術運動MAVOに参加したり、新作落語の台本を書いたり、多才な面もあったという(参考:田河水泡 :: 東文研アーカイブデータベース (tobunken.go.jp);田河水泡/町田市ホームページ (city.machida.tokyo.jp))。
一世を風靡した『のらくろ』で、元子は階級組織というものを学んだのみならず、家族を登場人物に見立てるなどして楽しんでいた。家のなかで最も偉そうであり、年とともに太って頬の筋肉が緩んだ祖母のぶは、もちろんブル連隊長である。星三つの階級章を紙で作り、のぶの首にかけたりしたのだが、さほど不機嫌そうではなかった。
時節柄、都知事選の時のことが思い出される。のぶが、政治家の政策などには疎いにもかかわらず盛んに「みのべさん」のことを話題にするのを訝った母、展子が食事時に尋ねたところ、ファンなのだという。山梨県石和市の出身、父、小林重貞は金融業、と言えば聞こえはよいが家では「高利貸し」と伝えられており、のぶは筋金入りの甲州人であったので、「みのべさん」とは何かそぐわない感があったものだが、何のことはない、政治家らしからぬジェントルな雰囲気に惹かれていたものだと思われる。理由はともあれ、元子の記憶に、東京都知事といえば美濃部亮吉と刻み込まれたのは、のぶのおかげなのだ。
「平和を祈ろう」『のらくろ二等兵』(普通社、1962年)より
ご紹介, 所蔵(孝四郎), 所蔵(轍), 所蔵(邦郎)
百人一首 三種
2019/01/09
百人一首三種
年代の古いほうから
尚、邦郎の代まで、外国製の玩具を使用した形跡は一切ない。
ご紹介, 所蔵(邦郎)
彫塑 (クニヲ)
2018/12/10
邦郎が使っていた書斎に無造作に置かれていたもの。
いささか読みにくいが、数字が刻まれており、「1923 八月 クニヲ」あるいは、「1928 八月 クニヲ」と見える
1923であれば、孝四郎の作、1928であれば、邦郎の作であろう。いずれにしても文字部分は孝四郎が刻んだと思われる。
貴重な資料を後生大事にしまい込んだりするのではなく、孝四郎が生きていた時代のように自然に、という考えから、アトリエのなかの作品や書籍も配置していた邦郎のことである。校長などという職を務めながらもシャイなところがあったので、孝四郎の愛情が伺われるものを、なおさら大切そうに扱わなかったのかもしれない。
もっとも晩年は孝四郎の作品継承のことはかり念頭にあり、自分の作品の管理などに専念する余裕もなく、案外、自分でも忘れてしまったのかもしれない。それも邦郎らしいところである。
ご紹介, 所蔵(邦郎)
弔詞 (安井曾太郎)
2018/06/07
日本芸術院会員、帝室技芸員、一水会委員、日本美術家連盟会長の要職にあり、東京美術学校、学制改革後、東京芸術大学美術部教授も務めた洋画家、安井曾太郎(1888-1955)による。
封筒に納めて、さらに和紙で包むという丁重なもの。
孝四郎没半年後に自身も逝去。
ご紹介, 所蔵(邦郎)
装幀用道具類
2018/05/03
邦郎使用。孝四郎より受け継いだものと思われる。
ご紹介, 所蔵(邦郎)
日本色彩研究所編著 『新色名帖』
2018/05/03
日本色彩研究所編著『新色名帖』 日本色彩社、1956年
邦郎が装幀の仕事のために使用していた色名帖。
元子幼時の遊び道具。
さすがに烏口は尖端が危険と思われたか、触る機会は得られなかったが、これは何故かいつも手の届くところにあった。
ぱらぱらとページを繰ると思いがけない色の組み合わせが現れ、“美しい”組み合わせではないものも、それはそれで面白いと感じられた。
思えばこれが、邦郎から娘、元子への、最初で最後の色彩教育であった。
この色名帖から、邦郎が小さな四角を切り抜き、何か描かれた紙の脇に並べて貼りつける作業を見るのは楽しく、しかるのちに訪れる客人(編集者)にその紙が渡されると、時をおいて書籍が帰ってくる。これには驚かされた。
だからといって、これらのことをもとに将来はブックデザイナーになりたいなどと元子はついぞ考えたことがなかった。
ご紹介, 所蔵(邦郎)
弔詞 (瀬木博信)
2017/12/04
孝四郎逝去の折、捧げられた弔辞のひとつ
当時の博報堂社長・瀬木博信による、きわめて丁重で、画家や作家とは違う感性を感じさせる文章。
家にあるものは、いかにも整理されたようではなく自然にあるがままにというのが邦郎の考えで、この「弔詞」も、邦郎の手で「弔辞集」と書かれた厚手の封筒のなかに、美術関係者の弔辞、弔電名簿とともに納められ、孝四郎の装幀作品や蔵書とともに無造作に置かれていた。
邦郎は孝四郎の死んだ年、63歳まで父のことは語ったり書いたりすることはしないとしていたが、このようなお言葉の数々も(よく引用されるものは別として)、生来の潔さによるのだろうか、家族の利のために活用されることも、話題にされることもなかった。