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ご紹介, 蔵書(展子)

Debussy, Claude, La plus que lente, 1910, etc.

Debussy, Claude,  La plus que lente, A. Durand & Fils, Éditeurs, Paris, 1910

Debussy, Claude,  Images 1er Série pour Piano á 2 mains , A. Durand & Fils, Éditeurs, Paris, 1905

Debussy, Claude,  Estampes Pour le Piano, A. Durand & Fils, Éditeurs, Paris.1903

Debussy, Claude, Nocturne pour piano, La sinène musicale, Paris,1907

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展子蔵書。
楽譜の表紙や譜面に残された微かな痕跡から、もとの持ち主に想いを馳せるのは楽しい。

孝四郎がドビュッシーに心惹かれていたことはよく知られている。好んで弾いていたのは「ゴリウォーグのケークウォーク」、自己流ゆえに、もともと面白いリズムがさらにゆがんだ感じになり、家族には不評であった。ドビュッシーと言えば、日本では「ベルガマスク組曲」のなかの「月の光」が特に有名だが、この楽譜は所蔵されていない。

展子が音楽家であることを孝四郎は喜んだらしく、ドビュッシーを弾いてとせがまれたが、展子が師事した故・谷康子東京藝術大学名誉教授は、ドイツ音楽中心の教育であり、ドビュッシーは習っておらず困惑したという。独学する前に孝四郎が他界したため、ついにその前で演奏することはなかったようだ。

展子は東京音楽学校(現・東京藝術大学)に進学を希望していたが、当時の成蹊高等女学校校長(名前も挙げていたが伏せる)に、成蹊は芸人を育てる学校ではないと叱責され、受験が叶わなかった。

少し年長の淡島千景が宝塚音楽舞踊学校に進学したことが影響したようだが、時代なのか校風なのか、クラシックも宝塚も区別なく「芸人」というネガティヴイメージが付与されていたことになる。

そのため、藝大を始めとする音大卒のピアニストとNHKのオーディションで競うことになり、苦労もあったようだが、望んだポストに就くことができ、特に新潟放送局では様々な能力を発揮させていただくことになった。

成蹊高等女学校には心通じる友人もいたようだが、同窓会には一度も参加しなかった。 もっともそれは恩地家の嫁という立場を(成蹊流に)全うするためであったと思われる。