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ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

クラスノフ 『双頭の鷲より赤旗へ 上巻』 1930年

P.クラスノフ 『双頭の鷲より赤旗へ 上巻』(大木篤夫役) アルス、1930年

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「白布に黒・朱赤・黄3色のプリント。箱は濃紺と赤、扉は黒と赤。いずれも直線的で
大胆なデザインである。」(恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』掲載、邦郎によるコメント、129頁)。

『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』三省堂サイト:https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/

 

孝四郎、邦郎がともに使用し、後に邦郎がある程度整えたアトリエの書棚は、孝四郎の
生前にそうであったかのように、感性の赴くままといった様子に設えられていた。

そこでは美術史、博物誌、民族誌、民俗誌から政治社会思想書、さらにはファンタジーや
児童書などに至る、さまざまなジャンルの書籍が使用原語のいかんを問わず、違和感なく共存していた。

ただし孝四郎が装幀作品や蔵書から日頃の振る舞いに至るまで政治社会的な主義主張にはいささか無頓着で、それが宮内省式部職の家の子供としての躾に支えられた振る舞いと 混在していたことに、邦郎はあまり共感していなかったように感じられる(元子の印象)。

とはいえ邦郎も、特定の政党や政治的主義主張の支持者を標榜することなく、政治社会のことは家族のあいだの教養として食卓の話題に挙げる程度であった。

だからといって邦郎は、勤め先の私立高校の同僚や部下の、社会活動家として血気盛んに邁進するものに対して偏見をもったり抑圧的な態度をとったりすることはなかった。

結果、学生運動華やかなりし頃、家の応接間が負傷した教師の臨時救護所となったこともあり、家族は大いに胆力を鍛えられたものである。